伴星たち

 ぼくの身体は、ここからずっと遠くにある。
 その身体には、なにも見ない目がついている。なにもしゃべらない口がついている。
 だけどぼくは、世界を見ることも人の声を聞くことも自分の言葉を伝えることも、なにも諦めたくなかった。
 ある時、ぼくは自分の全身に施されたサイバネティクス医療――脳機能バイパス――のネットワーク越しに、自分の意識を外部へと発信することに成功した。
 病院のモニタールームのパソコンのスピーカーに繋がった、ぼくの第一声を聞いたのは、偶然にもぼくの主治医だった。
「聞こえていたら応答してください。ぼくは――といいます。入院患者です」
 自分の入っている病室も、病棟もわからない。もっと言えば病院の名前だって知らない。だから、自分の名前だけを告げた。その時、訝しげに「あ?」と返ってきた声に、覚えがあった。
「先生。主治医の先生ではありませんか? 聞こえますか。聞こえるんですよね? 先生、先生!」
 興奮したぼくの呼びかけに、かれは、
「センセーなんて呼ばれにゃならんほどバカじゃないよ」
 と、言葉を返してきた。
「だったら、なんて呼べばいいですか?」
「博士……ってのも気恥ずかしいからな。そうだな……ドクター。ドクターって呼んでくれよ」
 随分久しぶりの、一方的ではないやり取りだった。
 人と関わることを諦めたくないと言い募ったぼくに、かれは「物好きだな」と鼻を鳴らした。臨床も診察も、さらには人間も嫌いだと言うドクターは、もともとメディカルサイバネティクスの研究者を志していたらしい。が、教授との人間関係をしくじって、地方の「辛うじて」総合病院に飛ばされ、ぼくのような昏睡状態の患者だけを相手にしているのだと他人の噂話でもするように語った。
「おれだったら、喜んで一生寝て過ごすがね」
 当時のぼくに唯一残されていた聴覚――もっともいまもって、サイバネティクスを介さないぼくの身体にあるのは聴覚だけだ――が、ずるずるというなにかを啜る音を捉えていた。見た目もにおいもわからないから定かではないけれど、ドクターは、モニタールームでなにか飲食をしていたのだと思う。一人で。
 ぼくの呼びかけは、ドクターにとっても不慮のことであったはずだ。しかし、ドクターは間違いなく優れた研究者だったのだろう。かれは、ぼくに希望を与えた。
 脳機能バイパスのためのネットワークを、クライエントの意識に開放する技術を実用化したのだ。
 ドクターが言うには、「開放と言っても、もともとロックされてやいなかったからな。脳に接続された回線で通信を試みるようなアグレッシブな昏睡状態の患者がいままでいなかったから、見過ごされていたんだ。新しく盛り込んだ技術なんてのはないよ」ということらしいのだが、正直なところ、ぼくはこのシステムをはっきりと理解してはいない。とりあえず、さらにドクターの言葉を借りるが、「脳機能バイパスを整理して取っ掛かりを理論化したから、むちゃくちゃな執念を燃やさなくても、正しいやり方で訓練すれば、サイバネティクスのネットワークを使って、受信と発信ができるようになる」のだ。つまり、ぼくとの最初の交信をかれは「むちゃくちゃな執念」の結果だと言っているようだが、まあ、甘んじて受けよう。執念だって燃やすさ。ぼくは、この世界に、こんなにも未練があるんだから。
 昏睡状態にありながら、世界と関わり続けることを諦められない人間は、他にもいた。昏睡状態になくたって、自由の利かない身体ではだれのためにも生きられないと人生を悲観している――だれかのために生きたいと切望している――人間は、いた。ほんとうに、たくさんいたんだ。
 ドクターの見出したシステムは、ぼくらの希望になった。
 心臓が止まるまで、だれに利益をもたらすこともなくただ病床を占拠し、医療費を貪るだけの存在――そこから脱却するための、希望。

 ぬいぐるみリンク、と名づけられた新しい技術を体験した。ワールドワイドウェブにサイバネティクスを結びつけ、遠隔地にあるぬいぐるみを媒介として情報の送受信を行うものだ。運動機能は搭載されていないからロボットのように動くことはできないが、音声を発信することと、視覚聴覚に情報を得ることができる。ぬいぐるみの姿を借りたスピーカー兼マイク兼カメラ、といったところだろうか。
 この技術が画期的だった。ロボットやペットを使うよりもクライエントの安全を保障しやすいという点で、セラピーの分野での広まりが期待できる、と偉い教授の先生が言っていた。
 どこかのだれかのためになにかをしたかった。ぬいぐるみリンクを使ったセラピーは、そのことに、ぴったりだと思った。
 医療関係者や熱心な活動をしているNPO法人、それからサイバネティクスに興味のある個人など、いろいろな人たちにワールドワイドウェブを通じて語りかけた。植物人間の夢物語だという揶揄も、たくさんぶつけられた。
「ぼくらのやろうとしていることは――やりたいと思っていることは――傷の舐め合いでしかないかもしれない。それはわかってるんです」
 ある時、憔悴した心地で、脳機能バイパス越しにドクターにこぼした。ぼくとドクターは患者と主治医という関係でもあったし、かれは病院に勤めながらも大抵一人ですごしていたから、他の人には聞かせられない後ろ向きな言葉もぶつけやすかったのだ。
「いいんじゃないか。舐められた傷ってのは、癒えるもんだろう」
 かれの投げやりな言い方は、すっかりぼくの耳に馴染んでいた。

 活動を続けているうちに、ぼくは「シリウス」と呼ばれるようになっていた。全天で最も強い光を放つ、導きの星の名を借りて。そうやって呼ばれることを受け入れながら、しかしぼくは、ぼくらを導いた希望の星・シリウスが、ぼくではないことを知っていた。
 希望を与えてくれたのは、ドクターだ。
 いつも一人でモニタールームでカップ麺を啜り、医療とIT技術の融合を論理的に整理しても表舞台で名前が語られることもなく、ぞんざいな態度で人と接し、医者のくせに臨床も診察も嫌いだと躊躇なく言い切る、孤独な天才。
 希望の星だとか社会貢献がどうとか、そんな言葉をかければ「かゆい」だの「悪趣味」だのと切って捨てられることはわかっているから、だったら代わってぼくが「シリウス」と呼ばれようと、勝手に決めたんだ。
 やがてぼくらは「リンカー」と名づけられた。脳機能バイパス支援を受けてぬいぐるみリンクを使いこなすセラピストとして活動する、身体障害者。その事実に、ストーリーを見出す人たちがいた。ぼくらのわがままや矜持を、うつくしく心温まるストーリーとして語り、喜ぶ人たちが。そうして報じられることに違和感がなかった、と言えばうそになるけれど、ぼくはそれでもよかったんだ。ぼくらの現状が「すてきな意味」で飾られて、そのストーリーに励まされる人がいるのなら、ぼくらの希望が繋がれてゆくのなら、構わなかった。
 リンカーの人口がようやく百人を超えた頃、リンカーとしてのぼくに、一つの依頼が舞い込んだ。
 まだリンカーは、知る人も限られていて……言葉は悪いけど、「見世物」の域を出ていない存在だ。いまぼくらがやっているのは、施設や学校で絵本の読み聞かせをしたり、授業で教員のサポートをしたり、そういうマスコットとしての仕事がほとんど。あるいは、マスコミの取材だとか。でも、ぼくらリンカーの大半は実のところ、「属」ではなく「個」と仕事がしたいと思っている。ぼくらは剥き出しの心にリンクしたいんだ。なにかに属してしまう時、人の心は、剥き出しのままではいられない。そして、なにに属していようとも、自分の心からは逃れられる人はいない。剥き出しの心とむき合う一人を、そのまま、引き受けられたら。そんなふうに願っている。
 この時のぼくに届いた依頼は、そういうぼくらの意向を汲んだ仕事だった、と言っていいだろう。相手の、ただ一人のクライエントの情報を受信してゆく。
 一次視覚野の一部を損傷し、脳機能バイパス支援を受けている。目と腕のそれぞれ一方が義眼及び義手。また片足に麻痺があり歩行は困難。幸いサイバネティクスと相性のいい体質で、投薬を併用したリハビリの成果も期待できる。が、最近の口癖は「どうしたらちゃんと死ねますか?」。障害を負うきっかけとなった事故で親友を亡くし、鬱状態がひどい――「生き残り」と「死に損ない」のすり替えからくる罪悪感、と言ったところかな――。
 睦月輪華(むつき・りんか)、十五歳。
 そう、きみだよ。

 遠い昔、いまよりもうんとたくさんの星々が鏤められた空を見上げて、物語を紡いだ人がいた。
 暇だったのかもしれない。
 すごく、悲しかったのかもしれない。
 だれかを励ましたかったのかもしれない。
 理由なんて、きっかけなんて、もうだれも知らない。
 とっくに失われている。
 とぼけた顔の黄色いライオンが、きみに語りかける。
「手品師のステージを横から見たら、魔法も奇跡も、きっとそこにはないだろう。地上で語られる星物語は、それと同じさ。地球の外では意味を成さない。この空ではすぐ隣り合って見えていたって、宇宙空間では何億光年も離れているかもしれないんだ。なんの関わりもない星どうしなんだから」
 だけど、物語はいまも生きて、まただれかの心へと寄り添うだろう。
 物語が生まれた理由なんて、なんだっていいんだよ。
「きみとぼくがこうして言葉を交わしている理由がわかる?」
「治療の一環、でしょう?」
「そうだ。きみは現実を受け入れられないでいるネガティブな障害者で、ぼくは現実を受け入れたポジティブな障害者。きみの両親は、きみがぼくに感化されることを望んでいる。そして依頼を受けたぼくがこうしてきみと話をしている。実に明快だね」
 現実に、きみとぼくは言葉を交わしている。
 理由はいま言った通り、もちろんある。
 でも、どうだっていい。
 きみが見出す意味。それがすべてなんだよ。
「現実は現実。どんな理由があったって、『ただ、それだけ』。意味は自分で与えるものだ。輪華。わかるだろう。きみはいっしょに事故に遭った友達を亡くした。ただそれだけが事実だよ。なのにきみは自分が神様に択ばれなかったから、友達だけが死んだのだと言う。それはきみが事実に与えた『意味』だ。あまりすてきな『意味』ではないかな」
 きみは現実のために苦しんでいるんじゃない。
 自分で勝手に与えた意味のために、苦しんでいるんだ。
 黄色いライオンが、きみの瞳に映りこんでいる。
 おっと。
 どうやらぼくは――このよくしゃべるぬいぐるみは――きみに優しくなかったようだね。
 きみの目が潤む。
 左の義眼がわずかに引き攣れて、軋む。
 持ち上げられたきみの手が唸り、左手だけがまただらりと下ろされた。
 アンバランスに揺らぐまなざしを、きみは右手だけで覆う。
 ああ、そうだった。
 腕も、左側なんだね。
「いやなの、もういやなの。こんなガラクタになって生きるより、ちゃんと死んでしまいたい」
 その義手の駆動音も、きみはひどく嫌っているんだってね。
 さあ、きょうはここまでにしようか。

 ぬいぐるみへの接続を切断すると、ぼくの前に闇が訪れた。
 ここがぼくの身体の在処だ。
 時折震える目蓋を両親が喜んでくれることは知っている。ぼくの意識によらない、ただの痙攣だけど。この目蓋が持ち上がることは決してない。たとえ持ち上がったとしても、そこにある目は、とっくに失明している。
 唯一残された聴覚が、点滴やカテーテルが交換されるのをぼくに知らせる。針や管をどう入れられようが除かれようが、痛みはおろか、痒みも、てんでなんにも感じやしない。
 ぼくは意識を集中して、室内にあるぬいぐるみへの接続を探す。
「ありがとう」
 声をかけると、おかあさんがふりむいた。
 おかあさんの背後には、ぼくの身体がある。
 こんなぬいぐるみじゃなくて、動力を工夫したマネキンみたいなのに接続できたら、自分の身の回りの世話くらい、自分でできるんじゃないかな。遠隔操作できる簡易のアンドロイド、みたいに。
 ああ、だめだ。アクチュエータを含むものを媒介とすることは、悪用や暴走の怖れがあるとして、禁忌とされているんだった。例えばシンバルを叩く猿を媒介とすることさえ、許されていない。
「戻っていたのね。おかえりなさい。お疲れさま」
「ただいま」
「どうだった? きょうは随分遠くとリンクしてたんでしょう」
「うん。とは言っても病室なんてどこもそんな大差があるでもなし、観光してきたわけでもないから、あんまり遠出してるって感じじゃなかったなあ」
 優しげにほほ笑んでうなずいたおかあさんが、ぼく――ぬいぐるみの――に背をむけて、ベッドに横になっているほうのぼくの身体へとむき直った。身を前へ傾げて、ぼくの身体の向きを変える。その後ろ姿を、ぬいぐるみのぼくが見つめる。
「おかあさん、あんまりまめにやって、腰痛くしないでよ」
 自力では寝返りも打てないけど、床擦れなんかできたって、ぼくは痛みなんて感じないんだから。無理しないで。そんなことを言えば、おかあさんを悲しませることを知っているから、言わないけど。
 サイバネティクスを加味した義肢の分野の発展は著しい。ぼくがこの状態になった当時、まだ試作品(プロトタイプ)と呼ばれていたパーツがいくつもある。現在のものに比べると不格好なそれらは、とても「生身の人間」の一部にはそぐわない。幼い頃――目が見えて、身体が自由に動いた、遠い昔――に観た古いSF映画を思い出す。ロボットを構成する、いくつもの黒い配線。あれを、どうしたって思い出す。
 それぞれのつらさは、比べられるものじゃない。
 わかっているけど、どうしても「たかが」と思ってしまう。
 たかが、左半身が動かないだけじゃないか。
 最先端の医療技術と造形技術で形成された姿は、生身の人間と遜色なかったじゃないか。
 なのに、自分の生はガラクタだと嫌悪するきみを、少しだけ憎んでしまう。
 きょうのぼくは、少し皮肉が過ぎただろうか。
 輪華。ぼくはひどいガラクタだろう。
 それでもかけがえのない自分自身だ。
 この人生が、ぼくにはとても尊いんだよ。
 きみにも、きみの人生を生きてほしい。きみの親友も、きっとそれを望んでいる――なんてこと、安易には言えないけれど。きみが生きる日々が、きみの心が、凍えてしまわないように願っている。心からそう願う人たちがいることを、きみだって、きっと、もう知っている。目を逸らしているだけだよね。きみは自分に「幸せを願われる価値」がないと思っているから。もしかしたら、責められたほうが、いまのきみは楽になれるのかもしれない。どうして親友だけを一人で死なせたのか、なんて詰られたら、きみはもっと心置きなく、自分の死を見つめられるのかもしれないね。生きてほしいと、幸せになってほしいと、願われることは、きみの重荷なんだろう? わかるよ。
 またぼくは、ライオンのぬいぐるみの姿で、きみに話しかけるよ。きみの言葉を聞くよ。何度も、何度も。
 ぼくの命が燃え尽きてしまうまで。





「輪華には、ぼくの思いを引き継いでほしい」
 忘れもしない、ぼくがきみに最後に伝えた言葉。いまでは――既に死んだぼくの「いま」をきみが信じてくれるかどうかはわからないけど――後悔してる。
 ちがうんだよ。ほんとうは、ちがっていたんだよ。現実を受け入れなくたって、自分を責めていたって、いいんだ。絶対にきみを誇りに思う人はいる。そうきみに伝え続けることだけを、ぼくは望んでいた。それだけがぼくの役目だったんだ。
 なのに、きみの前でぼくは、ひどくわがままになっていたね。晩年を迎えて、偏屈になっていたのかな。最後の最後で、きみにエゴをぶつけてしまった。
 そして、出合った頃よりも明るく逞しくなっていたきみは、ぼくのエゴを受け止めてしまった。
 ご法度だってわかっている。こんなふうにクライエントになにかを押しつけるなんて、リンカーとして、決してやってはならないことだ。
 なのにぼくのわがままを、きみは「導き」だなんて呼んでくれる。
 後悔してるってのはうそじゃない。ただ、どうしたってうれしいんだ。
 ごめんね。





 シリウスに「思いを引き継いでほしい」と言われた時、わたしはただ、自分に「リンカーの素質がある」と言ってくれたのだと思った。うれしくて、両親に頼んでリンカーについての資料を探してもらった。
 そうか。あれが最後の言葉だったのか。春分が迫って、暖房が入っていると病室が暑いと感じる日もあるだとか、とりとめのない会話に紛れるみたいにもらった言葉だった。
 いやなことを言って、シリウスにぬいぐるみリンクをぶち切られたこともあったね。あんな日が最後にならなくて、ほんとうによかった。最近は、シリウスと言葉を交わすことが楽しくってうれしくって、仕方なかったよ。だけど、足りていただろうか。シリウスに伝えた「ありがとう」は、「ごめんなさい」は、ほんとうに、わたしの中に生まれた「ありがとう」や「ごめんなさい」と、等しかっただろうか。
 ぜんぜん、足りていないね。足りるわけがないよ。だって、わたしはシリウスに導かれていた。
 シリウスがわたしの病室に最初にリンクしたあの時、わたしは、なにも見たくなかったの。あの子が――親友の、あの子が――いなくなった世界なんて、感じたくなかった。顔を上げたら、目を凝らしたら、あの子がいないことを認めることになるんだって思っていた。怖かったの。あの子がいない世界に自分が生きているなんて、とんでもない悪夢だと思った。その悪夢から醒められるなら、自分が生きていることも死んでいることも、どうでもよかったの――ううん。どちらかと言えば、死にたかった。
 だけどシリウスは、やっぱり、導きの星だった。夜空に輝くシリウスを、この目で追いたいと思ったの。私の目にもう一度世界が映ったのは、シリウスの導きを見上げた、その「ついで」だったんだよ。シリウスが照らし出してくれたんだよ。
 自分が一人じゃないことなら、わかっていた。一人じゃないから苦しかった。あの子は一人で死んでしまったのに、手を差し伸べてくれる人がいる自分が許せなかった。だけど、顔を上げてしまったら、もう無理だったの。もう一度顔を背けることなんてできなかった。あの子への罪悪感は拭えなかったけれど、手を差し伸べてくれる人たちへの感謝の気持ちが溢れて、温かくて。
 煌々と輝く一等星から目を逸らさないと、心を決めたの。
 ほんとうにありがとう。
 両親が用意してくれたリンカーについての資料は、リンカーになるための通信教材だった。堂々と印刷された「リンカー協会公式参考書」の文字。シリウスも、この協会の設立のためにがんばってたんだって、聞いたよ。ほら、ちゃんと導かれている。シリウスの導きの火を、わたしも、守るよ。





 シリウスのもたらした希望を、わたしはずっと、遠くに輝く一点の光のように思っていた。目指して進むための、道しるべだと。
 だけど、ちがっていたのかもしれない。だって、わたしはただシリウスを見つめていたわけではなかった。手を取り合うことは叶わなかったけれど、ぬいぐるみリンクを通して言葉を交わし合った、あの時、わたしたちは重なり合っていた。
 あのね、シリウス。ごめんなさい。
 あなたが死んでしまったのだと知ってから、ほんの少しだけ、もう進めない、って思ってしまったの。シリウスの導きがないと、わたしには進路がわからない――そんなふうに思ってしまった。ちがうのにね。
 シリウスを目印に、進路を知ったんじゃない。
 手を引かれながら進んでいたのでもない。
 わたしは――わたしたちは――希望を繋がれた。光を渡されたんだ。
 闇の色に囲い込まれるぎりぎりで、一点の光の色から、ごく短い道が伸びた。
「あら。いまのアタリは見逃してくれるかと思ったのに、残念」
 と、あまり残念でもないふうに、敏枝(としえ)さんはわたし――ぬいぐるみの白いうさぎ――にむかって、小首を傾げた。
 アタリというのは、囲碁で「相手の石で自分の石の呼吸点が一つを残して塞がれて、もう一つ石を置かれたら、その石がとられてしまう」という状態のこと。この時に最後の呼吸点に自分の石を置いてアタリを脱することを「石を助ける」って言うの。まだまだ初心者のわたしは、自分の石を助けることにばっかり終始している。そしてわたしは「石を助ける」のが好き。最初にぬいぐるみのうさぎを見た敏枝さんに「白兎ちゃんだから、あなたが白を使いなさい」と言われて以来、わたしのがずっと白。敏枝さんはずっと黒。一度も勝ったことなんて、ないのに。
 白の石を助ける時、いつもシリウスのことを思い出す。
 助けられた石は、一人ではなくなる。助けてくれた石と共に、呼吸ができる。希望を繋いでいける。そりゃあ、わたしはまだ敏枝さんの黒色に勝ったことは一度もないし、縁起でもないって言われちゃうかもしれないけど。でもね、わたしの白い石が道を伸ばしてゆく時、いつもシリウスのくれた希望が、胸を温かくするの。
 ぬいぐるみリンクで使うぬいぐるみは「動いてはいけない」って決められてるから、ふつうの碁盤と碁石は使えない。だから、敏枝さんと白いうさぎは、少し大きなタブレット端末を挟んでむかい合わせに座っている。敏枝さんはタッチパネルで、わたしはぬいぐるみリンクからの通信で、石を打つ。
「じゃあ、次はここね」
 細い皺が幾重にも走る、すらりと細い指が軽やかにタブレットに触れた。打たれた位置を見て、わたしは思わず「あっ」と声を上げた。
「一気にアタリができちゃった……どうしよう。一手でぜんぶは助けられないし」
 ダメージを受けたことを隠しもしないわたしの声を聞いて、敏枝さんは得意げに微笑む。
 八十歳を過ぎた人に使う形容ではないかもしれないけど、敏枝さんの頬は少女のように盛り上がっている。この年齢でこうなのだから、きっとこれが「垂れ下がった」結果なのだと思う。若い頃はさぞやシャープなお顔立ちだったんだろう。わたしはぜんぜん知らないけど、敏枝さんはもともと役者さんで、五十年六十年前には一世を風靡し、テレビや映画にもばんばん出演していた人だと資料にかかれてあった。四十歳を迎える頃にメディアでの仕事から離れ小さな劇団を旗揚げして、それからはずっとお芝居をして地方を回っていたそう。後年のお仕事はあまり実入りの大きなものではなかったらしい。けど敏枝さんは「小さな劇団の興業を立ちゆかせて、劇団員全員――って言っても私入れて二人だったんだけど――を一生面倒見て、それでもおつりがくるくらいのお金は、若いうちに稼いでいたのよ。始末にしか生きられない性分だから、貯まる一方だったの」と、なんでもないことのように言ってのける。とても凛とした人だ。
 わたしは敏枝さんに、特別に思い入れを持って、このお仕事を受けている。
 個人との対話を主とする依頼は初めてだったし、なにより敏枝さんのリンカーによるセラピーを必要とする原因が「友人の死」だったから。

 大人だからか演技をする人だからか、はたまたそういう気性なのか、敏枝さんはしゃべるうさぎのぬいぐるみに対して、最初から友好的だった。ふさぎ込んで拒んだりはしなかった。
 敏枝さんの亡くなったお友達は敏枝さんと同い年で、映像作家として同じ時期に芸能界でお仕事をしていた人。敏枝さんの活躍に比べると「鳴かず飛ばず」と言われても仕方がないくらいの知名度しかなかったみたい。だけどプロモーションのショートムービーでもCMでも、敏枝さんは、お友達に撮られる自分がすごく好きだったんだって。
 三十代の終わりに、お友達が監督と脚本を務める映画に主演した。インディペンデント映画で、製作費もわずか。だけど敏枝さんの表舞台での演技を観られる作品は、その映画が、最後。
「私ね……我の強い役者でね。勝手に台詞変えたりト書き無視したり演技指導にも反論したり――もちろん、いい作品のために必要なことだったっていまでも思ってるわ。どのお芝居にも後悔はしていない。だけど、あの子にはぜんぶ従った。あの子が撮ろうとして、そして撮ってくれた私は、いつも完璧だった。あの子についてゆきたいって思った。映画の打ち上げでね、劇団を作ってその監督をするのが老後の夢だなんて言ったのよ。あの子。ちょっとでもその劇団が存続するようにいまからお金貯めてる、なんてね。だから私は言ったの。お金なら私が持ってるから、その夢はいますぐに叶うわ、看板は私が背負ってあげる――って」
 二人きりの劇団。ときどき必要があればその都度人を募ることはあったけど、一人芝居のほうがずっと多かった。儲かることもあれば、足が出ることもあった、と、敏枝さんは笑った。ほんとうに愉しかったことを思い出しているのだとわかる顔で、笑った。
 あのね。最初はね、わたし、敏枝さんのことがうらやましかったの。
 だって――わたしだって、何十年も、両方が「おばあちゃん」なんて呼ばれるまで、いっしょにいたかったの。あの子と。敏枝さんの「あの子」じゃない。あの日、わたしが一人で死なせてしまった、わたしの「あの子」と。
 敏枝さん、あなたの「あの子」との思い出は、わたしがのどから手が出るほど欲しているもので、だけど永久に手に入らないものなんです。そんなにたくさんの思い出があるくせに、セラピーを必要とするなんて、ずるいです。贅沢です。そんなふうに思ってた。
 わたしはあの日、クライエントである敏枝さんのことが、ほんとうに憎らしかった。リンカーは、セラピストなのに。こんなの、失格だって、わかるのに。
「白兎ちゃんは、ちょっとあの子に似てる」
 初めての囲碁での対局を終えた時、敏枝さんがぽつりとこぼしたことがあった。
「しんねりむっつりのくせして、頑固で負けん気も強いのね。いまの勝負だって、途中からもう絶対ひっくり返らないってわかってたのに、打つ手がなくなるまで諦めないんだもの。あの子とやった時のこと、思い出しちゃった」
「気持ちを紛らわせてもらえたらうれしいです」
 ついそう応じると、敏枝さんは、うんと悲しそうに首をすくめた。
「紛らわせたりはできないわ。白兎ちゃんはかわいいし、若い頃のあの子と似てるって思うこともある。だけど、あの子がいないことを、白兎ちゃんがいる時間で紛らわしたりしたら、白兎ちゃんと出合う前の、本物のあの子との時間が、うそみたいになっちゃうと思うから」
 はっとして、咄嗟に、ごめんなさい、とだけ言った。他になんと言えばいいのかわからなくて、くらくらした。敏枝さんに失礼な……とてもひどいことを言ってしまったのだという事実に、心臓がばくばくと鳴っていた。いくらうさぎの耳がいいからって、ぬいぐるみの耳が脈打つはずがないのに。
「こっちこそ悪かったわ。白兎ちゃんは、そんな意味――あの子にとって代わってあげる、なんて意味――で、言ったわけじゃないのにね。人生のほとんどを、作り物の台詞に魂を吹き込むことに費やしてきたせいかしら。すぐに言葉尻に拘ってしまうのよ」
「そんなことないです。わたしが」
「もう言いっこなしにしましょう。どう? もう一局」
「あ……お願いします!」
 リセットされた液晶画面の碁盤へと敏枝さんが手を伸ばし、黒の石が一つ、置かれた。
 聡明で、凛々しくて、気が強くって優しくて、ちょっと、とっぽい。白い肌に走る数えきれない縮緬皺まで、ぜんぶきれいな敏枝さん。ぜんぜん年齢はちがうのに、わたしも少しだけ思っていた。わたしより大人びていて……――でもいまのわたしよりも幼い面差しを最後に残して死んでしまった――あの子と敏枝さんは、似ている。だからって、わたしだって、敏枝さんの中にあの子の面影を求めたわけじゃなかった。
 碁盤に浮かぶ黒の石にそっくりな、小さくて丸い沁みが一つ、胸の奥に落ちる。わたしは、なんて未熟なんだろう。敏枝さんのセラピーに従事しているはずが、わたしのほうが慰められ、励まされている。

 約束の時間に合わせてビデオチャットにログインすると、少し間を置いて、応答があった。
 ――春分の星見の会に行くんだろう。どうする、それまでに目、いじるか?
 ドクターはいつものように、通り一遍の挨拶や近況報告をすっ飛ばして、唐突に話を始めた。
「目?」
 リンカーはみんな、リンカー協会の担当者とは週に一度日を決めて連絡をとることになっている。さらに、わたしみたいにリンカーになって日の浅いうち(一人一人の慣熟度やシステムとの適応具合などに応じて期間を切られるそうで、一律の決定はないみたい)は、月に一度リンカー協会のシステム室長である医学博士――聞いた話によると、シリウスの主治医だった人。みんなに倣ってわたしも「ドクター」って呼んでる――との面談を受けないといけない。リンカーの活動は世界規模で広がっているから、もちろん直接遇うのではなくて、こうやってビデオチャットシステムを介してだったり、ぬいぐるみリンクを介してだったり、するんだけど。
 ――ああ、視覚野の処理プログラムを新しくすりゃ、認識できる星を増やせる。なんなら、ちょっとした天文館の大型望遠鏡並みにだってできるぞ。
 得意げ、というにはあまりにぞんざいな口ぶりで、ものすごいことを言う。これがドクターが「天才」と呼ばれる所以なんだろう。
「プログラムを更新しても、昼間の視力には影響しないんですか?」
 ――するに決まってるだろ。昼間のレベルをかなり下げても、太陽付近を見たら義眼が一発でいかれる。あと、義眼のほうにしか影響しないから、両目での視野をうまく処理できなくなるかもしれないな。
「ちょっと……それは」
 ――ああ、実用向きではない。だから、望遠鏡並みとまでとは行かないが、いまより夜空をクリアに見えるように調整したバージョンを用意してるよ。
「そんなこともできるんですか?」
 ――できるさ。そっちの医者にはもう話もついてるぞ。
「だったら、望遠鏡並みの話って、いったい……」
 文句を口ごもらせるわたしを見て、ドクターが子どもみたいに口をとがらせた。冗談が通じない、とでも思われたのかな。だけど、ドクターは事実しか言わないものだからどこまで本気でどこからユーモアのつもりなのか、どうも意図がつかめないのだ。
 ――使い道はありそうにもないけどな、まあ……どこまで感度を上げられるか試してみたかったんだよ。プログラムの更新は寝てる時間帯を利用して細切れで進めていって、当日朝までに完了する見込みだ。日中に慣熟訓練が必要になるが……。
「がんばります! 春分の日はお仕事も入っていないので!」
 意気込めば、ドクターはふんっと鼻で笑った。
 ――幼稚園だの保育園だの老人ホームだの小児科病棟だの引っ張りだこだって話だったけど、眉唾だったな。暇してるんじゃないのか。
「春分の日は祝日だからです! 幼稚園と保育園は閉まってるし、老人ホームや病院だって職員さんの少ない日だから、イベントなんてできないんですっ!」
 むきになったわたしが面白かったのか、液晶の中のドクターの下まぶたにくしゃりと皺が寄った。
 シリウスが死んでしまってから一年が経ち、春分はもう間近に迫っている。
 その春分の夜に、みんなで星空を――導きの星・シリウスを――見上げよう、っていう集まりを、リンカー協会は企画している。
 シリウス。あなたは一人で、あなたの心も一つだった。だけどあなたの言葉や行動は、たくさんの人の心に人の数だけの意味を根づかせたでしょう。きっとみんな、あなたに導かれたっていう昔話を、こぞって話したがるわ。語られるいくつもの思い出に、わたしはいくつものあなたの姿を見たい。
 リンカーは、まだぜんぜん歴史のない新しい存在なのに。不思議だね、「昔話」だなんて。

 明くる日に春分を控えた、三月十九日。
 わたしは病院から程近い幼稚園の卒園式に出席した。クリスマスの初仕事以来の約三か月間、何度も絵本の読み聞かせのお仕事をさせてもらった。読み聞かせはぬいぐるみリンク越しだったから、目印にうさぎのぬいぐるみを膝にのせて。
 義手に義眼で、半身の麻痺により歩行は困難、また病院を長時間離れることはできない。とだけ知らせていたからか、わたしの姿――車椅子こそ使っているが、義眼も義手も傍(はた)から見る分には違和感を与えないらしい――を見て、あからさまに目を瞠る先生たちもいた。もっと痛ましい、障害者然とした姿を想像されていたのか、と考えてしまって、少しだけ気が滅入った。
 昼前に病院に戻ってからは、毎月催される小児科病棟のお誕生会に参加するため、自分の病室からぬいぐるみリンクに接続をした。
 お誕生会の最後には、食事とケーキが配られ、ハッピーバースデーが歌われる。そこまでを見届けて、わたしはぬいぐるみリンクの接続を解除し、すっかり慣れ親しんだ病室のベッドに寝そべった。リンカーとして卒園式に出席することになったと知らせたわたしに、おかあさんが見立ててくれた紺色のワンピースが皺になる、と思うのに、義手の駆動音を響かせ動きにくい左半身をフォローしながら着替えを行う、なんて、考えるだけで億劫だった。
 まだお昼だ。お仕事をしていたのは、ほんの半日だけ。老人ホームのイベントのお仕事なら、朝から夕方までぬいぐるみリンクに繋ぎっぱなし、というのだってざらだし、複数のお仕事が立て込めばもっと長時間のリンクが必要になることになる。それでも、こんなにくたびれたことはいままでになかったと思う。
 リンカーとして初めて外に出たことの影響なのかな。
 わたしは、サイバネティクスによる支援があれば、ほとんど健康に過ごすことができる。だけどサイバネティクスを管理する病院のサーバーから離れることはできないから、いつまでたっても「入院患者」。システムサイバネティクス診療支援病棟、と名づけられたこの病棟を離れられる目途はまだつかない。
 きょうは、ぬいぐるみのうさぎではなく睦月輪華として、外の人と関わった。ほんとうに、久しぶりに。
 そしてわたしはそのまま眠り込んだのだと思う。眠る寸前になにをしていたのかは思い出せない。無意識にわたしがやったのか、なんらかの偶然で作動してしまったのか――わからないけれど、わたしは、ぬいぐるみリンクにアクセスをしたまま、転寝をしていたみたい。
 ふと目が覚めた時、見えたのはいつもの病室じゃなかった。だけど、知っている人の姿を視界に捉えたから、なにが起こっているのか、すぐにわかった。
 あ、わたし、ぬいぐるみリンクに接続しちゃってるんだ、って。
「と……敏枝さん……」
「あら。白兎ちゃん? どうしたの、きょうは約束はなかったと思うけど」
 わたしの声に、知っている人――老人ホームの敏枝さん――はいつものようにきれいに微笑んでくれたけど、その寸前に見てしまった、とてもとても強張った表情を、忘れることはできなかった。
 敏枝さんの暮らす老人ホームは、いわゆる有料老人ホームだ。俗に言う「お金のある人が入れるところ」。高級ホテルの一室みたいな寝室のベッドに腰をかけて、大きな窓にむかい合っている。わたし――うさぎのぬいぐるみ――を胸に抱いて。
「具合が悪いんですか?」
 いま敏枝さんを照らしているのは、青白い蛍光灯ではない。やわらかな春の日射しだ。それなのに、敏枝さんの顔色はすごく悪い。
「白兎ちゃんの名前はなんて言うの?」
「え? あ、えっと、デイジーです」
 へどもどと応えると、敏枝さんは首を横に振った。
「ぬいぐるみの名前は最初に聞いたわ。あなたの、ほんとうの名前。これ、訊くのはもしかしてマナー違反かしら?」
 リンカーの行為に関する意見の窓口をリンカー協会のみに統一するため、リンカーはクライエントに対して本名その他の個人情報を告げないことになっている、というのはほんとうだ。だけど、厳格な規定というわけではなく(リンカーを特定して依頼が寄せられることもあるのだし)、なによりわたしは敏枝さんに対しては、なにも伏せていたくなかった。
「輪華……輪っかに華やか……で、輪華、です」
「いい名前ね。リンカーの輪華ちゃん、なんて、すてき」
 ぬいぐるみのわたしをサイドテーブルに置くと、敏枝さんはぴしりと整えられたベッドに横になった。
「この着物、どう? ずっとこれにしようって決めてたのよ。びっくりしたけど、最後に輪華ちゃんに遇えてよかったわ」
 あまりにうつくしい笑顔に射抜かれながら、わたしはようやく理解した。敏枝さんの表情に宿る、言い知れない違和感。
 これは、死相だ。
 敏枝さんの手が伸ばされる。指先でくるりとわたしの身体を反転させ、うさぎの顔を窓へとむかわせた。
 霞みがかった春の光景がそこにある。窓辺に寄り添うハゴロモジャスミン。遠い土手一面の山茱萸。道むかいの石塀に枝垂れているのは、たぶん山吹。
 ぬいぐるみリンクのぬいぐるみは動かない。カメラとマイクとスピーカーのくっついたぬいぐるみでしかない。手も足も出ない。
 わたしの身体はうんと遠くにある。
 病室を出られない日々の中で、ぬいぐるみリンクに万能感を覚える時もあったけれど、わたしはこんなにも無力なんだ。
 ぬいぐるみリンクへの接続を切り、自分のベッド柵を探って、ナースコールを摑み出した。
 ――伺います。
 わたしのコールに応じる看護師さんの声がすぐさま返ってきたことに、少しだけ安堵する。
 だけど、焦燥感はやまない。
「睦月さん、いかがなさいましたか?」
「ごめんなさい。早く……いますぐに、――に連絡をしてください!」
 敏枝さんの暮らしている老人ホームの名前を告げると、看護師さんは怪訝そうに立ちすくんだ。わたしの不穏状態を疑っているのだと、手に取るようにわかる。
 ちがうの。昼寝をして、寝ぼけているわけじゃないの。
 落ち着いて、ちゃんと伝えなくちゃ。
 落ち着いて、落ち着いて――落ち着く、って、どうやるんだったっけ?
「いま、ぬいぐるみリンクが繋がって、敏枝さんが、敏枝さんが! し……死んじゃう……!」
 ひどい、とても病院に相応しくない、真っ黄色の声で、わたしは叫んでいた。



 三月二十日の朝、敏枝さんの訃報がニュースで流れた。
 半世紀近く前人気の絶頂に表舞台を去った幻の名優の死、として。遺言により通夜や葬儀は行われないが、故人を慕う有志たちが近いうちに偲ぶ会を予定しているという。
 わたしが知らなかった敏枝さんの姿が映し出される。想像通りのシャープな頬、いまと変わらない鷲鼻。真ん中がくっきりとくぼんだ上唇のラインもよく知っている敏枝さんと同じで、だけど容貌がうんと若いから、その分だけちょっと生意気そう。
 テレビの中で、わたしも見たことのある大物芸能人が、敏枝さんを偲び、讃えている。芝居に於ける、人生に於ける、偉大なる先達だった、と――そうか、敏枝さんもまた、導きの星だったのか――。
「睦月さん。プログラムの更新が終わりましたよ。リハビリ室で慣熟訓練を行いますから、むかいましょう」
 看護師さんの呼びかけに応じ、テレビの電源を落とす。手助けをされながら用意された車椅子へと移った。
 きのう、看護師さんから老人ホームへ連絡をしてもらった。ホームの職員さんが敏枝さんの部屋へ辿りついた時にはもう敏枝さんは心肺停止の状態だったらしい。
 敏枝さんはあの時、わたしを――ぬいぐるみを――動かした。自分で死出の装束と決めた着物を身に着け、自分で整えたベッドに横になった。だから、身動きがとれなかったわけではなかった。なのに、コールで職員を呼ぶことをしなかった。自身の寿命が尽きることを覚悟をしていた。そんなことはわかってる。きちんとした遺言もあったというし、わたしのしたことは余計だったのだと思う。
 親友が死んだと聞いてから、ふさがらない傷から血が沁み出続けるように何日も何日もぐじぐじと泣いていた。
 シリウスが死んだと聞いて溢れた涙は、瞬きをするたび静かに頬を伝った。
 敏枝さんの死に、やっぱりわたしは泣いてしまった。一晩中嗚咽が止まらなかった。咽ぶたびに頭ががんがんと痛んだ。
 知らないうちに眠りについて、今朝、目が覚めた。少し薄情すぎるのではないかと途方に暮れるくらい、わたしの心はすっきりとしていた。
「目、一重になってしまってますね」
 作業療法士さんが遠慮がちにわたしの腫れたまぶたに触れた。
「大丈夫です。義眼の運用への支障はないと聞いていますから」
「ええ。そうですね。いまから更新されたプログラムを反映させます。しばらく目を閉じていてください」
「はい。――お願いします」
 わたしの身体がここにある。
 この身体には、偽物の目が一つ、ついている。偽物の腕が一本、ついている。左側半分は思い通りに動きやしない。
 だけどわたし自身だ。
 かげがえのない、わたし自身だよ。
 この身体でわたしは世界を見る。人の声を聞く。自分の言葉を伝える。諦められないよ。
 わたしはリンカーであり続けたい。
 きょうもどこかでだれかの命が消えるでしょう。それでも、もういないだれかが点した導きの火は、未来を生きるだれかの心で、眩しく輝き続けるんだ。
 目を閉じて訪れた闇の中、わたしは今夜の星見の会に思いを馳せた。

 シリウス、あなたの光を。